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ISE-sama
「無敵の彼氏−太師の休日(前編)−」
殷帝国を一つの人体と捉えると、皇帝・紂王はその帝国を体現しているといえる。
そして、その帝国の頭脳を司っているのが、太師・聞仲がいる太師府であった。
優秀な部下・張奎と官僚、そして太師の類稀なる行政処理能力によって殷の行政に関わる懸案は次々と処理されていく。
だが、人体と同じく、殷の頭脳もまた時には休息を必要とする。そのため、年に数度は大型の連続休暇を設け、職員の慰撫を行なっている。
そして、年末年始の休日を除いて、職員達が心待ちにしているのが、俗に『黄金週間』と言われる一週間余りの休日であった。この日ばかりは、議案作成の為に廊下を往来する靴の音も、木簡の上を走る筆の音も絶え、太師府は朝から静寂に包まれていた。
「本当に宜しいんですか・・・?聞仲さま?」
大きな瞳に不安げな色を浮かべて、張奎はおずおずと尋ね返した。
「かまわん。幸い、今は大きな案件を抱えてはおらん。私独りで問題ない」
「で、でも、聞仲さま・・・・」
毎年太師と共に仕事をするために連休中にも出勤していた張奎は、今年もいつものように朝早くから出勤していた。だが、今年は太師からかけられた
言葉は仕事の指示ではなく、休暇の勧めだった。
なおも食い下がって言葉を続けようとする部下に聞仲は静かに、だが、優しく声をかける。
「張奎」
「は、はい!」
「私を気遣ってくれるのは嬉しいが、お前にも休養が必要だ。それに、たまには奥方殿と一緒に過ごす時間を持ってやれ」
「あ・・・」
自分だけではなく、妻のことにまで気を遣わせてしまったことに、張奎は恐縮し、また感激し、ようやく後ろ髪を引かれるようにではあるが、太師の前を下がっていった。
「さて・・・」
張奎を帰した後、文字どおり一人きりの太師府で机の上の木簡に向かって筆を取り上げた聞仲だったが、その口元にふと軽い苦笑が浮かんだ。
今までであれば、なによりも公務を第一と考え、部下の家庭を気遣う言葉などなかった自分の変化にふと可笑しさを覚えたのだった。
確かに太師は、以前の太師ではなかった。
以前の冷たさや厳しさが薄れたわけではない。だが、それらを覆い包んで人に接する『温かさ』が太師に加わり、部下に対する態度にもそれが現れていた。そのことは、本人は気づいていないだけだが、女官達の間にそれまで畏敬の対象であった聞太師に密かに恋慕の感情を抱く者さえいるほどになった。
(これも『あの子』の影響か・・・)
もし、そこに親友である武成王・黄飛虎がいれば、自分の心情の変化の原因を指摘し、間違いなく茶々を入れていたであろう。そして、聞仲自身、その変化を認めないわけにはいかなかった。もちろん、指摘されれば、全力で否定しているであろうが。
聞太師が三つ目の案件に目を通し終えそうとしていたところ、遠くの方から廊下を駆けてくる聞き慣れた靴音が響いてきた。軽く苦笑を浮かべながら、聞仲は残りの文面
に目を落とした。
そして、聞太師がすべてを読み終えるとほぼ同時に、執務室の扉が大きく開かれた。
「やはり、ここにおったか!聞仲!」
殷国皇帝の一人娘であり、現在は聞太師の武術の教え子でもある姫君は、向日葵のような笑みを浮かべると、部屋の中に入ってきた。
「姫様、廊下を走ってはいけませぬと何度も・・・・、どちらかへお出かけですか?」
窘めの言葉もほどほどに、聞仲はそう問わずにいられなかった。普段の動きやすい服装には変わらないが、ただ一点いつもと異なり、その背中に姫の体と同じくらいの大きなリュックサックが背負われているのが目に入った。そのせいで注意力が散漫になっていたかもしれない。太師は姫の発した一言が次のように聞こえた。
「何を言っておる!お主も一緒じゃ!」
「・・・は?・・・・・・・今、なんとおっしゃいました?」
聞き間違いであって欲しいというほのかな希望を抱きながら、聞太師は大きな荷物を苦もなく背負い、ニコニコとしている姫君に問い直した。しかし、それは確認にはなっても訂正にはならなかった。
「折角の休みまで仕事ばかりしておっては体によくないであろう?だから、妾が聞仲を骨休めに連れていってやるのじゃ!」
殷の太師に向かって、まるで子供を教え諭す親のように説教をする者は殷広しといえども、おそらくこの姫君を入れても片手の数しかいないだろう。
「姫・・・、お気持ちは大変嬉しいのですが、私まで休みを取ってしまってはこの太師府の機能がすべて止まってしまいます。どうぞ、私の事はお気になさらず・・・」
「何を言う!現に武成王は休みを取って家族と共に出かけたと聞いておるぞ! お主が休みを取って何が悪いのじゃ?」
「黄飛虎は軍務にたずさわる者でありますから、紂王陛下の御威光が四方にとどろいておられる平時におかれては問題がございません。されど、太師府は民事を治める府にて、いついかなる場合にも完全に業務を停止わけにはまいりません」
姫君の優しさは嬉しくあり、また彼女の喜ぶ顔を見たいとは切に願う太師であったが、その為に執務を投げ出すことができるほど公私混同ができる男ではなかった。
「それなら大丈夫じゃ!お主がおらぬとも問題が起らぬように妾がお願いしてきたから安心してよいぞ!」
胸を張って勝ち誇ったように姫が発した言葉に、太師は動悸が急速に高まっていくのを覚えていた。そして、こういう時の予感に限って外れた試しがないのだ。
「恐れながら・・・、『誰』に『何』をお願いしてこられたのですか?」
「もちろん父上にお主の仕事を頼んできたに決まっておろう!!妾がお願いしたら『おぉ、そうか!聞仲と遠出か!よいよい、太師にも休日は必要だ。後は父に任せて一緒に行ってくるがよい!』と快く引き受けてくださったぞ!」
瞬間、聞仲は目の前が真っ暗になった。
思わず机に手をついてなんとか体を支えて立っていることができたが、あまりのことに目眩だけでなく、血の気が『滝のように』引いていく音が聞こえてきそうであった。
「姫・・・一体なんということを・・・」
「よいではないか、たまには父上にも聞仲の苦労を知ってもらうよい機会じゃ」
あまりに不遜な言葉を平然と言ってのけ、姫は呵呵と大笑した。しかし、一方の聞仲にはそんな精神的余裕は毫厘も生まれるはずもなく、初夏の心地よさとは裏腹に額には汗が浮んできていた。
「そうは申されましても・・・」
「聞仲!!」
なおも言葉を紡ごうとした聞仲にかけられた声。はっとした聞仲がそこに見たのは、まだ年端もいかぬ 少女の喜怒哀楽をないまぜにしたような顔であった。
「お主は妾と出かけるのがそんなにイヤなのか?妾はお主に良かれと思って父上にお願いしたのに迷惑じゃったのか?」
聞仲は激しく後悔していた。
(そうだ、この子はいつだって私を励まし、元気づけようとしているではないか。こんなことでは、また飛虎の奴にどやしつけられるな・・・)
聞仲は一つ小さな溜息をついた。少女の肩が小さく揺れた。
太師は姫君の前に膝を折って目線の高さを合わせると、この男にとっては希有な事であるが、できるだけくだけた調子を心がけて少女に語り掛けた。
「さて、姫様、私は一体どこに連れていってもらえるのでしょうか?」
太師にそう問われた少女は満面の笑みを浮かべてこう言い放った。
「それを考えるのはお主の役目じゃ!」
太師は二度目の目眩を起こしそうになった。
- 続く -
※感想は、完結後にさせていただきます。にしても、やっぱり姫は最強じゃ!!(あ、うつった…)
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