【二頁】
私が目を覚ますと、そこは知らない部屋だった。質素だが清潔に保たれ部屋で、香が漂っている。熱に浮かされぼんやりとした頭で、意識が定まらない。私は崑崙に向かう道すがら……そこから記憶がない。ふと、手のひらに暖かみがあるのを感じて目を向けると、燃燈が私の手を握りながら牀(寝台)にもたれ掛かって寝息をたてていた。何やらよくわからずに身をおこすと、額から水にひたして絞られた布がずり落ちた。
その時、部屋の扉が開いた。入ってきたのは、玉鼎真人だった。
「玉鼎真人…」
「ああ、起きていらっしゃいましたか。お加減はいかがですか?」
玉鼎真人は牀に近づくと、眠り込んだ燃燈に気づいて、くすりと笑う。
「おや、眠ってしまったのですね」
「あの、私はいったい…」
「覚えていらっしゃいませんか? 下界から崑崙に戻る途中、あなたは意識を失ったのですよ。2日近く眠っていらした。ここは玉虚宮です」
そう言われ、私もようやく思いだした。もはや自分の身体を支える事もできず、倒れて意識を失う瞬間、ぼうっとだが玉鼎に抱きとめられたのを覚えている。今更ながら私は恥ずかしくなって顔が少し熱くなったが、熱のまだ多少残る身体だったので、おやそらく気づかれていないだろう。
「ご迷惑をおかけし、申し訳ありません……ありがとうございます」
「いいえ。お礼ならこの子にどうぞ。……この子は素直な子かと思えばなかなか強情ですね。あなたが倒れてから、ずっと看病についていたんです。見かねてかわってやるといっても、あなたにへばりついてね。……燃燈はよい子ですね」
そういう玉鼎の表情はやわらかく、燃燈に対して好意をもっている様に感じられた。この長身の仙人は、どこか人を和ませる雰囲気をもっているが、人となりが自然と滲み出た結果かもしれない。そして、その玉鼎の言葉は私を喜ばせた。
「燃燈は…」
玉鼎に答えようとした時、燃燈がみじろぎし、ぱっちりと大きな目をあけた。そしてはっとして、私の手を放した。
「姉様。おきていらしたのですか。すみません、いつのまにか眠ってしまって…」
離れた小さなぬくもりが、なんだか名残惜しくて。ぬくもりを求めて燃燈の頭をなでた。
「私にずっとついてくれていたそうじゃな、ありがとう。心配をかけてしまったな」
すると燃燈ははにかみながら微笑んだので、私も微笑んだ。
「二人とも、お腹がすいているでしょう。食事を準備いたしましょう」
そう言って玉鼎が退室し、燃燈と二人、部屋に残された。
「お身体の方は、どうですか?」
「もう大丈夫。たいした事はない…燃燈が、看病してくれたおかげじゃな。それにしても、私はいったいどうしてしまったのだろう…身体が弱いわけではないのだが」
私は、今まで大病にかった事はなかったし、病気らしい病気にもほとんどかからなかった。だから突然の不調に戸惑いを覚えた。たしかに、下界の空気は澄んでいるとはいいがたい。けれど同道していた、玉鼎真人はなんともなかったではないか。
「元始天尊様がおっしゃってました。姉様は長く空気の澄んだ仙人界で住んでいた両親から生まれて、生まれてから今まで、この世界で一番空気の澄んだ天界で暮らしていたから、お身体が下界の汚れた空気に適応できないのでしょう、って…」
「--------なるほど。純粋培養すぎて、汚れた空気に弱すぎるという事か」
そう言った私の手を燃燈が遠慮がちに握って、うつむきがちに言った。
「姉様……もう、下界には降りないでくださいね。用事がある時は、私がかわりに参ります」
「燃燈?」
「姉様が倒れてずっと眠っていらした時、恐かったです。父様も母様も倒れてそのまま……一人になるのは嫌です」
握る手にわずかに力がこもる。それを感じて私は燃燈を引き寄せ抱きしめた。
「ねっ姉様?」
「私も、一人は嫌い……寂しいから。私はおぬしをおいてどこかにいったりなどせぬ。だから、おぬしも私のそばにいて」
「………はい、はい。姉様、約束します」
柔らかい腕が、私の背にまわされてぎゅっと力がこもった。
それは他人から見ると、幼いと笑われるかもしれない。だけど、私と燃燈の二人だけのとても大切な、大切な約束になった。
それから一週間ほどたって、私もすっかり回復し玉虚宮から自分の用意された住まいに帰る事になったのだがそのたった1週間の間に、私と燃燈はすっかり打ち解けていた。燃燈と二人、元始天尊のもとに挨拶に向かうと、彼から意外な申し出があった。
「燃燈をあなたの弟子に…?」
「うむ……仙人骨を持ち、崑崙にいる以上は修業をしてもらわねばいかん。ならばおぬし達の父の最後の言葉もあるしの、ぜひ弟子に迎えたい」
それは、二人が別れて暮らす事を意味するので、正直嫌だった。だが、崑崙の客分である私も無理は言えない。崑崙には崑崙のルールがあり、私はそれを守らねばならない。それに、どうせ修業をせねばならぬのなら、崑崙における「客分の弟」ではなく「元始天尊の直弟子」という確かな拠り所があるという事が、燃燈にとってはよい事のように思えた。
「私が、仙人の修業をするのですか?」
当の本人は最初少しきょとんとした感じだったが、興味があるようだった。だが私との約束を思いだしたのか、私と元始天尊の顔をかわるがわる見たので、燃燈に尋ねた。
「おぬしは、どうしたい? おぬしがしたいようにしていいぞ。----------玉虚宮と鳳凰山は近いもの。会おうと思えばいつでも会えよう」
「私は……」
なおも言いよどんでいる弟に、今度は元始天尊が尋ねた。
「のう燃燈よ。おぬし、強くなりたくないか」
「---------------------仙人になれば、強くなれるのですか?」
「それはさて、おぬしの努力次第じゃがな。だがおぬしなら、強くなれるじゃろうて」
そう言われて、少しの沈黙のあと。燃燈が私を見上げた。
「私は、強くなりたいです。姉様を守れるぐらいに…」
元始天尊の直弟子になった燃燈は、安息日のたび私の住まいがある鳳凰山に訪れてくれて、私を喜ばせた。生き生きとした表情で、修業の事を語る燃燈と話すのはとても楽しかった。燃燈にとって修業は楽しいものらしい。そして時々、燃燈は玉鼎真人の事を嬉しそうに話す。聞くところによると、玉鼎真人は崑崙でも有名な剣の達人だそうで、私は意外な気がした。あの長身の仙人の容貌は颯爽として立ち居振る舞いはきびきびしているのだが、同時に静かで柔和な雰囲気があったので、ちょっと想像できなかったからだ。弟は随分となついているようで、時々元始天尊のもとを訪れる玉鼎真人に剣の稽古をつけてもらっているのだと、誇らしげに語った。
「玉鼎真人様は、本当にお強いんですよ。剣を抜くのも、切るのもあっと言うまで、全然見えないんです!! 剣の稽古は厳しいのですけど、とても楽しいです。稽古が終わったら色んなお話をして下さいます。この間なんか…」
身振り手振りで燃燈があんまり嬉しそうに話すので、玉鼎真人を今度ぜひ、誘って一緒に来てくれと頼んだ。弟の事だけでなく、玉鼎真人には大変世話になっていた。私が鳳凰山に落ち着くまで、あの仙人は色々と手をつくし助けてくれたのだ。私もようやく崑崙に落ち着いた今、是非ともその厚意にお礼がしたかった。
燃燈は二つ返事で引き受けると、次の安息日にさっそく一緒に来てくれた。そして三人で打ち解けて話してみると、玉鼎真人は物腰やわらかく聡明で、燃燈がなつくのもなるほどと納得できた。楽しい時間をすごしながらふと思い返して見ると、誰かを招待した事などこれがはじめてだった事に気づいた。天界にいた頃は、例え一人が寂しくても他人をうちに招待するなど考えられなかった。親しげに近づいてくる者はたくさんいたが、その後には暗く汚いものが渦巻いているような気がして……あの頃は誰かに心を許す事ができなかったからだ。
それが今こうして、愛想笑いなどでなく、心から楽しいと思い笑っている自分がいる。なんと不思議な事だろう。弟は、邪心などとは無関係に私を一途に慕ってくれる--------それが私の冷たく凍った心を溶かし、新しい世界に気づかせてくれた。私にとって燃燈は、かけがえのない大切な者になっていったのだ。
そしてその日を境に、私たち三人は親交を深めていった。
安息日に、燃燈と過ごすのは常の事となっており、時々玉鼎も加わった。それは穏やかで満ち足りた時間だった。
そして緩やかに時間が過ぎていった。
燃燈は逞しく育っていく。私の胸ほどまでだった身長も、気がつけば私を追い抜いていった。小さくて、やわらかかった腕も筋肉がつき力強くなり、精悍な男になっていく。ただ、私を見るその瞳の優しさだけはかわる事がなく。
道士としての弟の成長ぶりもめざましいものがあった。よい師に恵まれた事もあるのだろうが、もともと生真面目な性格であり、一心不乱ともいえる様子で修業に励んでおり、その成果は目に見えてわかったし仙気も会うたび大きくなっていくのを感じた。
私はといえば、幼い頃から母に仙道としての修業を受けていた。両親が仙人という特異な生まれだった私は素質が桁違いに違うのだと母が言っていたが、崑崙に来たころには並の仙人程度の力をつけていた。天界では修業や勉学は嫌いではなかったが、どちらかというと寂しさを紛らわすための手段の一つだった……それが身近で燃燈の成長を見ていると、何やら取り残されていくような危機感を感じ、独学ではあるが私も修業に励んでいた。そしていつの間にか、「さすがは純血の仙女」と誰からも目される仙女となっていた。
「姉様、ずるいですよ。私はいつまでたってもあなたに追いつけません」
燃燈はそんな事をいって少しすねた顔をしたりするので、私は苦笑しつつごまかす。
「おや、でも私は剣の腕ではお主に到底かなわぬぞ?」
「そんなものまで負けるわけにはまいりません!!!」
と、生真面目に答えるので、私はまた笑うのだった。
時折融通がきかぬほど生真面目な燃燈は、私に叶わぬのがよほど悔しいのか、ますます修業に精を出した。そして私も密かに修業に精を出していた。
そんなある日の安息日の事だ。今日も来る予定の燃燈を楽しみにして待ちながら、育てていた花の成長を眺め楽しんでいると、後からふいに声をかけられて私は驚いた。聞き覚えのない声だったからだ。
「竜吉、久し振りだな」
「誰じゃ?」
不法侵入者に身構えて振り向いて、まじまじと顔を見た。声に聞き覚えはなかった、だがその顔に覚えはあった。
「呆けたか。仮にも兄を忘れるとは。それとも忘れたい、か?」
見覚えのある人を小馬鹿にした様な尊大な態度……大嫌いな男の息子の一人だ。血はつながらないが私より少しだけ年上の名目上の兄で、名前は伯符。
「失礼いたしました、お兄様。長くご無沙汰しておりました間に、声もお姿も記憶と随分お変わりになられたので、わかりませんでした」
私はそう言って、上辺だけつくろった。もともと仲がいいとは言えなかったし、思いだしたいとも思わなかった。それに、伯符と最後にあった頃はまだ少年の域をでないころだったが、今の彼はすでに立派な青年だった。
「そなたも姿も、雰囲気もかわったな」
そう言って、どこか遠くを見るような様子で私を見つめた。私はどことなく居心地がわるくなったので、別の話題をふった。
「それでお兄さまは、どのような御用向きでこちらに? 今まで仙界までおいでになった事もございませんでしたのに」
「ちょっした用向きで、仙界の近くまできたのだが、おぬしの事を思いだしてな。よっただけだ」
だったらさっさと帰ってはくれないだろうか、とは思ったがさすがに口にはだせなかった。
「竜吉、ここの生活は楽しいか?」
「はい。元始天尊殿をはじめ、皆様のおかげで充実しています」
「その様だな。昔はあんなふうには笑わなかった」
「え?」
伯符は私から視線を反らし、咲き乱れる花を見た。かぐわしい花の薫りとともに、沈黙が私たちを包んだ。しかしすぐに伯符は口を開いた。
「-------------------------昔のおぬしは、笑っていてもどこか寂しそうだった。それ以外の時は怒っている様な顔しかみた事がない」
…それはそうだろう。ましてや昔の伯符は、何かにつけて私につっかかってきた。幼い子供の意地悪だったかもしれないが、当時の私にはそれが心に痛かった。心楽しく伯符と向かい合った事などあるはずもなかった。
「ここはおぬしには、とても合っているようだな。だが…いつまでもここにはおられまい」
「………どういう意味です?」
怪訝な声で私が訊ねると、伯符は私に視線を戻し向かい合った。
「おぬしがここにいる、そもそもの理由は何だ? 夫を見つけるまでは天界には帰れぬのだぞ。それともすでに情人でもいるか」
それを聞いて、私は天界の事をすっかり忘れていた事に気づいて苦笑した。
「何がおかしい」
「お兄様。私は天界には帰りません」
「何だと?」
「もう天界に帰るつもりはないと言っているのです。私の望み続けた全てはここにある。どうして手放す事ができましょう。そもそも、陛下も私をやっかい払いできたと、心安らかでありましょう。私は名ばかりの、何の血もつながらぬ娘なのですから」
それを聞いて伯符はまなじりを上げた。
「おぬしは父上の事をわかっておらぬ! 父上が、おぬしら母娘をどれほど大切にしていたか…気づいておらんのだ」
「大切!? 珍しい鳥を鳥かごにいれて愛でる事を大切と言うのですか!?」
「竜吉、言葉を慎め!!」
思わず言い返してしまい叱責され、言葉につまった私の前で伯符はため息をついた。
「おぬしはあの時、まだ幼かったからわからなかったかもしれん。父上は…至高の立場にいるからこそ、ままならぬ事もあるのだ。後宮で後ろ盾もないおぬしら母娘を、どれほど尽力して守ろうとされていたか。どれほど大切にされていたか。だがその御心も知らず、おぬしは父上を嫌っていたな」
伯符の非難の言葉が、私を苛立たせた。どのような言葉で飾っても、天帝のした事は自分本位なものあったとしか、私には思えぬ。非難される覚えはなかった。
「嫌われていたのは、私の方です」
「違う。おぬしの頑なな心がそう見させたのだ。……私がここに来たのは、本当は父上に頼まれたからだ。父上は多くは語られん。だが、おぬしの事を心配していた。もし、おぬしが望むなら天界に戻ってきても構わぬとのおおせだ」
その言葉に私は目を見開いた。とても信じられなかった。解りたくもなかった。
「戻ってこい天界へ。そして父上と向かい合ってみよ」
「帰りません。いいえ、帰りたくありません」
そう言った私の声は、心なしか震えていた。怒りによるものか、それとも不安によるものかは自分でもわからなかった。
「竜吉、父上の御心をそろそろ解ってもよい頃だ。おぬしには、父…」
何かが心の中で弾けた。
「いったい何を解れと言うのですか!! 私が…私と母が、どれだけ淋しい思いを抱えていたとお思いです!! 私の父と母を無理やり引き離して、母に勝手な思いを強要して醜い嫉妬と策謀が渦巻く後宮に押し込めた。その中でのみの自由を与えられたのを、感謝せよとおっしゃるのですか!? 陛下が私に与えたのは絶望だけです!!!」
「竜吉!!!」
伯符が怒りのこもった声をあげ、私の二の腕を掴んだ。
「おはなしください。お兄様」
「おぬしが変わったと思ったのはやはり錯覚だったか」
痛いほど掴まれた腕をふりほどこうとしたができなかった。
「何をしている!!!」
後から突然鋭い声が上がった。振り返ると、燃燈が走りよってきた。私は思わず手を伸ばした。
「燃燈」
燃燈は素早くその手を取り私をその背に庇い、声を上げた。
「お前は誰だ。ここで何をしている」
だが伯符はその問いかけには答えず、燃燈の全身を眺めやった。
「道士か。無礼者め、下がっておれ」
あきらかに侮蔑を含んだ言葉を吐き出し再び私に手を伸ばすと、その手を燃燈が弾いた。
「質問に答えろ」
「…私は天帝陛下が一子、伯符。その者の兄だ。妹を迎えに来たのだ」
驚いて燃燈が私をまだ背に庇ったまま、頭だけで私をふりかえった。
「本当ですか!?」
「…本当じゃ。血はつながらぬがの」
「さあ、わかったらそこをどけ」
私と伯符の間の微妙な空気を感じとってか、燃燈が微妙に身じろぎしたが、私はその背の服を掴んだ。燃燈の存在が私に勇気を与えた。
「私は帰りません。絶対に帰りたくありません。私は崑崙ではじめて心の安らぎというものを得ました。失うぐらいなら死んだ方がましです。ここが私の居場所です!!」
「この男か。下郎に惑わされたか」
伯符が燃燈と睨みあった。
「おやめ下さい。この者は私の実の弟です」
二人の間に私が割り込もうとすると、燃燈が腕をのばして私を制し、伯符に頭を下げた。
「伯符様、知らぬ事とはいえ失礼致しました。私は玉虚宮が主・元始天尊の弟子で燃燈と申します」
「何、元始天尊殿の」
頭をあげ、強い視線で対峙する。
「姉をお迎えにこられたとの事ですが、帰りたくないと申しております。申し訳ありませんが、ここはお引きとり下さい」
「お兄さま、お願い致します」
「…よかろう。父上は『おぬしが望むなら』との仰せであったしな。私は帰るとしよう」
私達の一歩も譲らぬ態度を見て、伯符は忌々しげに言って踵をかえしかけ、私に視線を止め皮肉な声をかけた。
「竜吉。おぬしは、後宮一の美女と言われたおぬしの母そっくりになってきたな。兄としても嬉しい事よ。父上がおぬしの母に惑わされたように、おぬしの美貌に惑わされる者が出てくるであろうな。皆の反応が楽しみだ」
「!!」
そう言って伯符は微かに笑いながら、帰っていった。私はその後ろ姿を睨んでいたが、姿が見えなくなったその時…頬に熱い滴が流れた。色んな感情がせめぎあって、涙として現れたのだ。
「姉様…」
燃燈の大きな手が私の涙をぬぐう。見上げると、燃燈が戸惑った顔で私を見つめていた。
「泣かないで下さい。姉様に泣かれると、どうしたらいいかわかりません」
「すまぬ…おぬしにも、迷惑をかけた」
伯符が下郎呼ばわりした燃燈に何かせぬか不安だった。だが元始天尊の直弟子である燃燈にはおいそれと手を出せまいが…そんな不安をよそに、燃燈は笑って言った。
「何を言うのです。私は誓っています。姉様のお傍にいて、お守りすると」
その笑顔と言葉が胸にしみた。ああそうだ…燃燈のいる崑崙に、私は居たかったのだ。天界に連れ戻される事より、燃燈から引き離される事の方が恐ろしい。
だがそんな自分の心に驚いた。弟を心から愛しいと思う。けれどもそれはむしろ…
「姉様? どうなさいました」
はっと気がつくと、至近距離で燃燈が私の顔をのぞき込んでいた。私を写すその瞳に胸が早鐘を打った。
「いいえ…ありがとう、嬉しかった。おぬしが来てくれなければ、連れ戻されていたかもしれぬ」
「姉様が嫌がっていらっしゃるのに、そんな事は絶対にさせません。それに…」
珍しく何かいいかけて途中で止めた。
「それに?」
「いえ、あの…なんでもありません」
「嘘。最後まで言うのじゃ」
「----------------------私は、あの方が好きになれません」
罰の悪そうな顔で、こっそり言うので、私は笑った。自分の中に芽生えていた想いを忘れるかのように。
「それでは私と一緒じゃな。昔から仲の悪かった兄だもの。さあ、燃燈。嫌な事は忘れて安息日を楽しみましょう。新しいお菓子を焼いたのじゃ。ぜひ食べてみて」
そう言って私は燃燈の腕を取り、室内に招き入れた。そうだ忘れてしまうのだ。胸に咲いた花など………。